ムー大陸です
今回から3回に渡ってユーロビートの話をします。1回目は総論です。
ユーロビートは80年代に登場したダンスミュージック、ディスコミュージックの一つで、87年から88年頃にはダンスミュージックの主流と言えるほど世界的に人気を集めたムーブメントです。
とは言え、音楽通にしてみれば、また評論家筋からすれば、それらは取るに足らない、魂のこもっていない、売れ線狙いの音楽という評価かも知れません。しかし、それを逆に捉えると聴きやすいポップな曲の宝庫と考えられます。今回はあくまでユーロビートを前向きに拾っていきたいと思います。
1970年代中盤以降音楽界に起こったディスコブームはビッグバンでした。業界の地図が一変します。
例えば、
①エルトン・ジョンが王座陥落。
新しいキングはビー・ジーズ
②ハードロックはオワコンに。
後の80年代のヘビメタ復興運動まで雌伏
③ポップス全体が大衆化。
不満な若者がパンクを創生
こんなあたりは過去このブログで触れた事があります。
それに加えて、
④ユーロディスコの拡大
アメリカ、イギリスというロック先進国以外のヨーロッパの国々から数多くのディスコミュージックが登場、
これです。
例えば、ドイツ、イタリア、フランスなどからもこの日本まで届くディスコミュージックが多くありました。ところが、これらの楽曲はアメリカでは殆ど成功を掴めずヒットには至っていません。やはり言葉の問題が大きいのと、正直多くが安っぽいサウンドの三流ポップスであるのは明らかでしたから。
アメリカで売れていたディスコミュージックは、ビー・ジーズやドナ・サマーのようなクオリティも高い王道中心。アメリカのマニアはユーロディスコも聴いていたでしょうが、まだレコードの時代です。入手も困難でしょうし、マーケットも巨大過ぎました。
つまり、ディスコブームは二重構造、アメリカ成功組とヨーロッパ特化組です。ヨーロッパ組の代表格はドイツのボニーMあたりです。スウェーデン出身のアバはアメリカでも売れました。ただ、彼らは英語でしたし、必ずしもディスコミュージックだけではないと言うか、そうでない部分の魅力が大きかったと思います。また、ドナ・サマーは、イタリア人でドイツを拠点に活躍していたジョルジオ・モロダーのプロデュースですが、彼のプロデュース作品でもアメリカで成功したのはドナ・サマーのようなアメリカ人かイギリス人、つまり英語歌のみです。
ただ、そういう構造よりヨーロッパ各国に広がった事が重要で、それがユーロビートの基礎となります。
さて、やがて、ブームは去ります。
ビー・ジーズは79年のアルバムで既に脱ディスコです。早いですね、さすがです。女王ドナ・サマーは79年がキャリアピークでした。でも、ダンスミュージックもディスコも無くなりません。音楽に合わせて踊るという根源的な楽しさと結びついていますから、ブームが去り、セールスは落ちても必ず生き続けるのです。ヨーロッパ各国で人は変わっても安っぽいダンスミュージックが生まれ続けます。
それがハイエナジーあるいはユーロビートと呼ばれるダンスミュージックです。80年代版ディスコと言って良いでしょう。ヨーロッパ各国で同様のダンスミュージックが作られましたが、発祥地かつ中心地はイギリスでした。70年代ディスコの時もそうでしたが、イギリスはロック先進国でありながら、チープで大衆的な作品に対してアメリカよりずっと寛容です。マーケットの大きさの問題もあるでしょうが。
イギリスが中心地なのは発祥地なのに加えて、ストック・エイトキン・ウォーターマン(以下SAW)のプロデューサーチームを輩出したからです。彼らのプロデュース作品だけがアメリカ進出に成功しているのです。ユーロビートも70年代ディスコと同じく二重構造で、アメリカ成功組がSAW、その他がヨーロッパ特化組です。SAWが70年代のビー・ジーズ的存在です。
70年代ディスコとの大きな違いは楽器です。80年代初頭にテクノのムーブメントがありましたが、この頃にシンセサイザーが大きな発展を遂げます。84年から85年あたりになると、シンセの価格もかなりリーズナブルになり、また、シンセベースやドラムマシンなどバリエーションも大きく増して、サウンドメイクが安定して来ます。
そうした背景から生まれたサウンドは印象的なシンセリフ、シンセのオクターブ奏法、ドラムマシンによる定型的なパターン、クラップ音の多用など、かなりシンセ色が強いものです。その為、どれも同じ様な楽曲ばかりと批判的に語られる事も少なくないのです。
しかし、私は必ずしもそうとばかりは言えないと思っています。確かに、①初期の作品はシンセの音色が画一的、②SAW作品は似た傾向、③マイナーなアーティストは安易なアレンジ、などの現象はあると思います。でも、①はシンセの発達とともに解消、②は作風であって、それはユーロビート以外でも同様。③も、マイナーどころは予算や技術に限界があるのはどんな音楽でも当てはまる事でしょう。
それらを考慮すると、意外とバリエーションに富んでおり、「これもユーロビートなの?」と言える作品が結構あるとさえ感じています。
それは歌メロにヒット性の高いキャッチーなものを持って来ているからだと思うのです。そこは70年代同様ヒット狙いの姿勢が強いからでしょう。私はそれを「市場に媚びたけしからん音楽」などとは決して思いません。例えば、バブルガム・ロック、産業ロック、キャンディ・ポップなどと揶揄されていた音楽同様、売れる事を至上命題とし、ロックよりポップ色を強めた楽曲が私は大好きです。
さて、名前の問題です。ハイエナジーとユーロビートは同じ音楽です。二つの呼び方があったと考えていいでしょう。いつがユーロビートの始まりかは明確ではありません。ダンスミュージックの歴史は絶え間無い流れですから。元を辿れば、1977年のジョルジオ・モロダーのプロデュースしたドナ・サマーの「I Feel Love」が重要だとする人は多いです。シンセの利用などの面で。
「I Feel Love」 ドナ・サマー
しかし、それは源泉であって、ユーロビートとしては、SAWが記念碑的作品デッド・オア・アライブの「You Spin Me Round」を出したのが84年。これはアメリカでもチャートインします。実にクセになる名曲です。その辺が草創期でしょう。
「You Spin Me Round」 デッド・オア・ドライブ
その頃はハイエナジーの呼び名の方が強かったかも知れません。イギリスで「High Energy」という曲がヒットしたのも84年です。説が分かれるところですが、この曲のタイトルがハイエナジーの元ネタではなく、既にハイエナジーの呼び名がある中で、それを使ったと私は考えています。
「High Energy」 エヴリン・トーマス
85年に邦題「素敵なハイエナジー・ボーイ」という曲がヒットします。分かりますか?原題は「Eat You Up」、そうです、荻野目洋子氏の「ダンシング・ヒーロー」のオリジナルになります。そんな邦題がつくくらいですから、その時点ではハイエナジーで押そうと考えていたのでしょう。
ところが、同じ85年にイギリスのレコードミラー誌がヒットチャートの名称をハイエナジーチャートからユーロビートチャートへ変更したため、二つの名前が併存することとなりました。
日本人的にはそれ以降はユーロビートの方が定着した名前です。何しろ、ヨーロッパ産のダンスミュージックだからユーロビート。実に明快。ハイエナジーって音楽のジャンルっぽくない名前ですし。ただ、その様にスッキリしたのは日本人だけのようです。イギリスではユーロビートは既に死語らしく、当時の音楽を振り返るならば、ハイエナジーの方が通じると聞きました。私は生粋の日本人なので、ユーロビートで行かせていただきました。
という訳で、今回は総論を展開しながら、一部初期の作品に触れました。次回はユーロビートの帝王、SAWプロデュース作品について追いかけます。
それでは、また。
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「騒乱節」
「頑張ってって言わないで」
「蒼の輪舞」